屍体の話


(死の話 1?)

私は、過分にネクロフィリアの気がある。
死を賞賛する気は毛頭ないが、「美しい屍体」というものにどこか惹かれるのは事実だ。
「死」というものには過剰に恐怖感を覚えている。
絶対に死にたくないし、死に至る可能性がある行為も嫌いだ。
それでいて、屍体にはとても惹かれてしまう。

澁澤龍彦いう人の文章に「優雅な屍体について」というものがある。
河出文庫の「エロスの解剖」という本に収録されている、比較的短いエッセイだ。
そこに、簡単にネクロフィリアの定義のようなものが書いてあった。
曰く…「屍体に性的魅力を感ずる傾向」「純粋な屍体愛好者は、屍体が腐りもせずに、永久にそのままの形であることを期待する」と。
性的かどうかは判らないが、とてつもない魅力を感じることは、確かだろう。

何故そうまで「屍体」という、生物にとって異質なものに惹かれてしまうのか…。
自分の中では「死」というものは恐怖の対象でしかなく、近づくことすら嫌だというのに。
そこにある荘厳な気配が好きなのか、それとも滅亡のにおいが好きなのか、…それとも本当は憧れているのか…。
この世で最も身近ではないものに、心惹かれている。

「優雅な屍体について」を読み進めていくと、ちょっと気になる記述がある。
曰く…「死者の転生という考え方も、ネクロフィリアを成立させるための重要な因子である」
私に置き換えてみれば差し詰め「死者の再生」が、ネクロフィリアを成立させているかもしれない。
美しい屍体は、いつかその「死」から復活するのではないか。
そういう期待を抱いてしまう…ような気がする。
その期待が抱ける「屍体」が好きなのだろうか…。

例えば道で不幸にも事故で死んでしまった動物の屍体などを見ると、
「ああ、可哀想に…」という哀悼の意識は浮かぶが、それ以上のものは特にない。
祖父や伯父という、身近なものの遺体を見たときも、「哀しい」ということ以外は浮かばなかった。
…葬式で屍体萌えしてたらただの危険人物だが(実際は、一人でひたすら普段と同じように振舞っていたが:苦笑)。

「死」という現象はとことん嫌いなのに、その現象の具現化である「屍体」には惹かれる。
このネクロフィリアの延長に「タナトフィリア(滅亡愛)」というのがあるらしい。
これは、自分が死んだと空想して、そこに快感を覚える傾向。
私にはそれは一切ない。自分が死んだ空想なんて、それこそ死んでもしたくない。
他人が死んだ空想だって、考えるだけでものすごく滅入ったりするほどなのに。

以前、同人誌に完全な「屍体賞賛」の短い文章を書いた。
書けば書くほど言葉が頭に浮かび、それを上手く表現することが出来たように思う。
「そこまで屍体が好きか、お前は」自分でと思うほどに、美しい屍体を賞賛した。
その屍体に課せられた非業の運命と、再び蘇るときの背反的な感覚。
そこに、とてつもなく魅力があるように思う。

内臓や骨格も、なんだか惹かれてしまう。
内臓が好きな理由は、純粋に学術的好奇心なのだが(要は中身を見たいという好奇心)、
骨の場合は、その造形と無機質感が好きだ。
カルシウムの結合体だからとか、そういうのはどうでもいいのかもしれない。
骨(特に骸骨と胸骨)に見られる、非現実的にも感じる無機質な感覚。
そこが私を惹きつけている。

「死」を冒涜する気持ちは一切ない。
何度も言うようだが、私にとって「死」というのは最大の恐怖の対象である。
基本的には迂闊に口にしたくないほどに、本気で怖いのだ。
そこまで怖いと真剣に感じるものを、冒涜する勇気はない。
だが、そこに確実に内包されている「退廃的」な感覚は、どうしても抗いがたい何かがある。
「屍体」が好きというものの根源には、「退廃」が好きというのが根付いているようだ。
そして、それはまた私の根本に相当近い位置にあるものだろう。





020311