「個」の話


人間というものは、無数のカテゴリーに属している。
国であったり、会社組織であったり、家族であったり、それこそ自分が何に属しているかを全て把握することはできない。
確実なことは、その中の「個」であるということ。
カテゴリーを構成する部品でありながら、それ自体がひとつのカテゴリーということだ。

人の経験や人生というのは、あくまでその「個」の中でのみ成立する。
どんなに言葉を労しても、自分と同じ経験をした人物などは絶対にいないし、その人生を理解できる相手など存在し得ない。
なぜなら、「個」である以上その経験も人生も、自分の「主観」の中にあるものだから。
主観はきわめて個人的なものであり、また閉鎖的なものでもある。

生きている以上、数多くの経験を繰り返している。
自分よりもいい経験を多くしている人もいるかもしれない。
自分よりも悲惨な経験をしている人もいるかもしれない。
が、例えどれだけいろんな経験をしている人がいたとしても、「個」である自分には判らないのだ。
同様に、自分がどれだけいろんな経験をしたとしても、それは「個」である他人には判らない。
話を聞いて「ああ、こんなこともあるのかぁ」と思うことは出来る。
思ったとして、それには絶対に実感が伴うことはない。
実際に経験したことのないことを、「個」の主観は実感する術がないからだ。
「主観」が「客観」に変わった時点で、別の「個」の中の「話を聞いた」という経験に変わる。
経験したのは話を聞いたという部分だけで、それ以上でもそれ以下でもない。

私は世の中というカテゴリー内で括れば、「恵まれまくった環境」にいる。
それは「客観」であり、私の「主観」はそうは感じていない。
なるほど、確かに一般家庭に育ち、親からは大事にされ、それなりに仕事もやり、趣味も楽しみ、不自由なく暮らしているように見えるだろう。実際その通りではある。
だからといって、人に羨ましがられたとき、ものすごく違和感を感じてしまうのだ。
客観的に見てどれだけ恵まれていようと、そこにある「個」で考えればいやなことだって山ほどある。
それは、他の「個」から見れば贅沢なことかもしれない。
しかし、それは私の主観でも何でもない。他人の「主観」(客観的に見るという経験)だったら贅沢なだけで、私はそうではないのだから。

他人が私に向かってやたらと不幸自慢をしたがる。
その人は「私はあなたよりこんなに不幸なのよ」とでも言いた気な顔をする。
こっちにしてみれば「あんたの不幸は俺には理解出来ません。あんた、俺が不幸じゃないと思い込んでるでしょ?」といった気分だ。
どうして他の人間が不幸じゃないと思える?
他の人間が不幸だと思わないことでも、「個」の主観が不幸だと感じれば、それはその人にとって不幸だろう。
どれだけ甘ちゃんに思えたとしても、本人じゃない人に不幸じゃないと断定されるのはおかしい。
理解できないのならまだいい。私はそういうことがよくある。
これが「恵まれている」証拠だとは思うが、人の不幸はあまりよく理解できない。
でも、それを否定することはしない。否定とは「それは不幸じゃない」と言い切ること。

何故、自分が経験したわけでもないことを「不幸じゃない」と言い切れる?
世の中というカテゴリーで括っているだけで何故「そんなことを不幸に思うなんて、贅沢」と断言できる?
同じ環境で同じ経験をした人はいないのだから、誰もそんなことを言う権利はもっていないのに。

人生の全ては個人経験の蓄積であり、個人経験は全て本人しか判らない。
ライブに行く。その場には同じアーティストのファンがごっそり集まり、同じ時間を共有する。
それでも、その場にいる全ての人々で、全て違う経験をしているのだ。
感想を話せば、同じ印象もあれば違う印象もある。
同じ印象でも、突き詰めて聞いてみれば実はそれがニュアンスが違っている。
同じ場所にいたとしても、同じ経験は誰一人としてしていない。

人の属するカテゴリーの最小単位である「家族」も同じだろう。
一つの家の中で暮らしていたとしても、その「主観」を知ることはできない。
私は親の言うことを完全に理解することはないし、親が私のことを判ることもない。
家族というカテゴリー内で共有意識を持つことができるだけだ。
カテゴリーは括りであり、その括りの中にはカテゴリー全体としての「主観」が存在する。
その主観を共有しているだけで、「個」の意識はまた別のところにある。

人間関係を煩わしいと思ったとき、私はいつもこんなことを考える。
必要なのは「主観」の理解ではないのだ。
共有意識の理解であり、「個」というものは尊重されるべきものだということを。
カテゴリーとしての共有意識は、私はとても好きである。
いわゆる「連帯感」であり、深まればそれは「絆」になるものだから。
しかし、それは「個」を蔑ろにしてまで成立させるものではないとも考えている。
「個」という最も小さい構成要素が確立されなければ、そこに共有意識が生まれることはない。

集団の中に埋没するのは楽だし、そこからはみ出して斜に構えるのも楽しい。
どちらを選ぶか、それは「個」である証しだろう。
例えそれ以外のどれかを選んだとしても、共有意識の枠にはまらない「個」が存在するだけのことだ。
それが少数派だったり他人とは大きくかけ離れた場合において、「個」は孤立することになる。
その孤立は無意識下では恐れていなくても、表面上はどうしても気にしてしまうこと。
誰も、一人にはなりたくないのだから。

孤立を恐れるところに、共有意識が芽生えることもある。
「自分一人でなければ安心」という心理は、私にはとても判りやすい共有意識だ。
基本的には人と違うところが多い(と、私の「主観」では思っている)自分としては、人と一致することがあるだけで嬉しくなってしまうことが間々ある。
自分とは違う人との共有意識は、実に実りの多いものでもある。
客観的とはいえ、知らない世界の話を知り、なかった知識を手に入れることができるから。
「俺は俺、あんたはあんた」だけでは、やはり人生はつまらないはず。

「個」でありたいとは思うが、完全なる孤立は望まない。
ただ、全ての経験が「個人的な主観」であるということを自覚したい。
自分の話も、人の話も、全てが「主観」であるということを。
そして、共有意識の中の「個」を大事にしたい。
人と共有できる、カテゴリーとしての「主観」もまた、「個」なのだから。

0204010