星の話

(自然の話 2)


子供のころ、本気で天体学者になりたいと思っていた。
大学でどの学部に行けばいいか判らなかったし、それ以上に医学や生物学に興味を持ってしまったので、高校に上がる前には諦めていた夢だが、いまだにちょっとだけそう思うときがある。

実は1回か2回、星に助けられたことがある。
子供の頃キャンプに行き、勝手にどんどん遊んでいたら、ふと戻れなくなった。
花火をやった後か前か、どちらにしても日は暮れていた。
どっちにいったらテントを張った場所なのか、判断するためのものは星だけ。
白鳥座が天頂ではっきりと観えていたことは確実に覚えていたので、テントで観えたのと同じ角度で観えるように、ひたすら進んで行った。
数分で、自分のテントのところに戻れたのだ。
小学生の頃の話である。

太陽系の惑星以外で夜空に浮かんでいる星は、
いわゆる「恒星」であり、太陽と同じようにその全身を燃やしている星たちである。
その地表には(おそらく)生命は住めないだろうけど、
星空を見上げたときに「ああ、あそこにも何か生き物がいる」と空想する。
太陽と同じということは、その周囲に不可視の惑星があるかもしれないということで、
惑星があれば、地球と同じような星があり、そこには生命の営みがある。
宇宙人とかそういう風に思うのではなく、生命があるのはここだけじゃないという考え方は
SF的な感覚に囚われることなく、その星たちの輝きを増してくれる気がする。

近づけば、人間のようなちっぽけな存在を掻き消すほどのエネルギーを持ちながら、
その距離故に柔らかくもあり冷たくもある光で夜空を飾る星たち。
過去の人々が繋いでくれたその線の上に浮かぶ星座は、
無機質にすら思える星の輝きに、彩を与えているように思う。
今のように汚れた空ではなく、きっと降り注ぐほどの星空を観ていた人々が
そこに神話の世界を思い浮かべたのは、当然の成り行きだったろう。
その神話を、私たちは夜空で実感しているのだ。

冬の空は、乾燥した空気の中で星たちが佇んでいるのが判る。
有名な星座たちは、日本では冬のほうが観やすいかもしれない。
オリオン座のちょうどお腹の辺りにある昴は、冬の深夜にしか観れない。
ちょっとでも街の灯りがあれば、あの星雲はそれに消されてしまう。
信じられないほどの星が集まってできている星雲なのに、この儚さは何なのだろうか。
夏の空は、いつ見上げても天頂に白鳥座が観れる。
天の川が見えなくても、夜空に大きな羽根を広げて飛んでいる。
湿っている夏の大気によって、白鳥は瞬き続けている。
全て距離の違う星の集まりなのに、この一体感は何なのだろうか。

北斗七星に8個目の星があるのを知っている人も多いだろう。
上から数えていって6個目の星のすぐ脇に、寄り添うように小さな星がある。
空気が澄んでいる場所に行けば肉眼でも観ることの出来るその星が、
私はとても好きだ。確か4〜5等星の、都会では観るのが難しい星。
東京では観れたためしがないが、私の住んでいる場所ではごく稀に観ることができる。
その星が観れたとき、自分がいかに夜空が好きなのかを実感する。
たとえそれが生き物の住まうことのない炎に満ちた遠くの星であったとしても、
自分にとっては最も身近に感じる星だから。

何気なく、夜の空を見上げてみる。
そこには星があり、地球を観ているような気がする。
そこに行くことはできない私たちでも、そこに在ることはできると言うことを、
無数の光で教えてくれているような気がする。
だから、私は星空がこんなにも好きなのだ。






020321