音楽の話3(表現力)
私の音楽を聴く基準は、ボーカルとベースである。 最愛の男がボーカリストだということもあるが、基本的にボーカルがいかに表現しているかで判断する。 この「表現」と言うのは私基準なので、世の中とは合ってないかも知れないが、そんなのは知ったことじゃない(爆笑)。 私の中での「表現力」というのは、その曲にこめられた感情をいかに表現できるかであり、それは楽器でも歌でも変わらない。 例えば楽器の場合、響きのなかに情景が浮かんでくるような音が好きだ。 ボーカルだったら、歌詞だけで情景を見せるのではなく、「声」で風景を思わせるのが好きである。 実名での例を挙げるのは憚られるので控えるが(苦笑)、最近の歌い手たちはそれが全然感じられないのだ。 歌うのならば、感情を込めてもらいたい。 歌詞(言葉)の羅列が音に乗っているだけの「歌」は、ただの騒音でしかない。 楽器を奏でるのなら、想いを込めてもらいたい。 音の連続だけの「曲」は、耳障りなだけだ。 自分が言葉を使うことを趣味にしているせいもあって、曲を聴くときはついつい歌詞を重視してしまうことが多い。 かといって、楽器の音を無視しているわけではないが。 某ギタリストのギターソロ曲を聴いて、不意に涙が止まらなくなったことがある。 その曲は一切歌詞はなく、ただ咽び泣くようなギターの音が、全身に染み渡るように響いていた。 そのときに「ああ、楽器の表現力っていうのはこういうものなんだな」と実感した。 目の前に、自分で作り上げたものであったとしても、いろいろな風景が浮かび上がったのだ。 そのまま、言葉が自分の中で繋がっていき、勝手に歌詞をつけていた。 その歌詞がその曲に完全に合っているかどうかは判らないし、誰かに見せようとも思わない。 ただ言葉がない中に、自然と言葉が浮かんでくる音、そこに「表現力」を見出すようになった。 ボーカルというのは、元々言葉によってその曲を表現するものだと思っている。 が、それ以外にも別のところに「表現力」の真価があるように感じてもいる。 言葉(歌詞)に含まれる感情を表現するのは当たり前。 それとは別に音に含まれている感情や想いを表現しているボーカルでないと、駄目なのだ。 先にも書いたが、言葉の羅列はいらない。 よく「薄っぺらい」という言葉を、私は音楽に対して使う。 音を出すテクニックや、言葉を並べるテクニックばかり上達して、そこから何も感情を読み取ることの出来ない音楽に対して使っている。 厚みは、音が多ければいいというものではない。 楽器ばっかり多くても、その楽器が全く深みを持っていなければ、それは「薄っぺらい」ものになる。 言葉を並べるリズムがよくても、その声に感情がこもってなければ、やはり「薄っぺらい」声でしかない。 「薄い」音楽は、聴いていても気持ちよくないのだ。 最近のミュージシャンは、特にボーカルがその辺を気にしていないように感じられる。 楽器の音がかっこよくても、ボーカルが言葉をなぞるだけの連中が妙に多い。 せっかく一流のミュージシャンがバックについて、その曲の魅力を最大限に広げようとしているのに、ボーカリストがそれを殺してしまっている。 もったいないと思うと同時に、そういうのが売れてしまう今が非常に歯痒い。 まあ、私の趣味に合わないからってだけなんだけど(苦笑)。 私の最愛のボーカリストは、宇都宮隆である。 人それぞれ感じ方は違うだろうが、私は彼の「表現力」が一番好きだ。 その曲に合った歌い方を、きちんと使い分けているから。 どの曲を聴いても、同じようには聴こえない。 ニュアンスが変わっているときもあれば、声の出し方を変えているときもあるし、全体の雰囲気だけが違うときもある。 好きだから、そんな風に聴こえると言われてしまえばそれまでなのだが。 完全に個人的に言ってしまえば、私はウツ以上に「表現力」のあるボーカリストは知らない。 …絶対反対意見があるとは思うけども(汗)。 音楽の価値は、「いかに歌詞に込められた感情を人に伝えるか/いかに音に込められた感情を人に伝えるか/いかに全体が調和しているように響かせるか」。 その中で、もっとも私が重要視するのが「表現力」なのだ。 心に響かない音楽は、私は絶対に聴かない。 |
020213