特撮の話1(総論)
特撮にはまらなければ、多分いろんなことを見落としていたような気がする。 世の中では、特撮=子供番組として認識されていて、多分それは間違っていない。 ただ「子供番組」だからと言って、大人に何も訴えかけないと思われていることは、絶対におかしい。 観た人が何かを考えるきっかけを作ることができれば、それは子供だけのものではなく、大人だってはまれるものであるはずだ。 勧善懲悪だけじゃなく、敵に対しても感情移入できるような作りだったり 完勝無敵のはずのヒーローが、自分の存在価値を苦悩するシーンがあってみたり 闇雲に暴れるだけの怪獣が、実は一番被害者だと思えてみたり。 そういう、ある意味非現実的な世界に、身近に入り込める状況を与えてくれる。 別に、非現実的にいたいと思ってるわけじゃない(願望がないとも言わないが)。 自分たちと似通った世界で起こる有り得ない出来事を、純粋に楽しむだけでも充分だろう。 でも、その世界で動いている登場人物たちから何か学ぶことができるならば、それは無視するのはあまりにも勿体無い。 啓蒙的なメッセージを受け取らなくても、登場人物の姿から学べるものは多いはずだ。 普通のドラマのようなものとは全く異なる、特撮だからこそ見えてくる何か。 2001年1月、たまたま北海道に旅行していたとき、朝TVをつけたらAGITOをやっていた。 普段だったら絶対に起きていない時間帯、旅行先じゃなければ観ることはなかっただろう。 昔、申し訳程度にかじっただけだった特撮が、いきなり自分の中で急上昇する原因になった。 最初はいつものように、出演者の顔が好みだったから観始めたのだが、いつの間にかその世界にどっぷりになった。 いまだにやっぱり好みは好みだけど、そういう視点だけで観ているわけじゃなくなっていた。 甘ったるくて砂を吐きそうなほどの人類愛とかもあるし、時間繋ぎみたいな要らない妄想シーンとかもあるけど、そういうのをひっくるめた世界観にはまってしまったようだ。AGITOのせいで。 元々、有り得ない話というのは大好きだった。 オカルト、SF、ファンタジー、アドベンチャー、スペオペ…そういうものを好んで観ていたし読んでいた。 子供のように空想の世界に思いを馳せ、いろんな世界で遊ぶのが好きだし。 それが高じて、文章を書くことを覚えたと言ってもいいかもしれない。 特撮は、その自分の空想した世界を、目の前に「映像」としてリアルに観せてくれるものだろう。 もしくは、全く知らなかった新しい空想世界を教えてくれるものだろう。 その世界の中でさらに自分がいろんなことを考え、想い、想像していくのが、とてつもなく楽しい。 これまで、「特撮」と言えば自分の中ではウルトラマンタロウだった。 リアルタイムではなく再放送していたもので、毎朝5時半に起きて貪るように観ていたのを覚えている。 何がそんなに好きだったんだろう…多分、タロウである東光太郎が時折見せる人間臭さ。 今セブンやエースを観れば、同じように感じるのかもしれない。 初代のマンと新マンでは、それは感じられないような気がするのは、ちょっと偏見があるからかな。 「ウルトラマンだって人間なんだ」そう思うようになったきっかけは、タロウだった。 そう、「人間」が変身して、異形のものと戦うことに気がついたから、特撮が面白く感じられるようになったのだ。 特撮は、あくまで敵と戦うことが大前提である。 その中には絶対に「死」と言う要素が含まれてしまうのが当然…でも、子供にとっては初めて直視する「死」。 大人だから「これはTVの話〜」と気楽に観ることができるけど、子供はそうは行かないはず。 いや、大人と言われる年齢になって久しい自分だって、そこに浮き彫りになっている「死」には動揺する。 感覚が子供じみているから、と言われるかもしれない。大人になりきれてないだけじゃないか、と言われるかもしれない。 自分は、そういう風に動揺できる感覚を失いたくないし、特撮にはまってそれを思い出した。 特撮にはまっていると言うことを誰かにいうと、大抵「子供だねぇ」と言われる。 そういうことを言う人には、いつも笑顔でこう言うことにしている。 「悔しかったら一回観てみな。はまったら笑ってやるよ」 子供だっていい。そう思いたければそう思っていただきましょう。 でも、そんな人は絶対損してると思いながら。 |
020126